立山こころビレッジの人々 「33年ぶりに帰ってきた飯盒 松田知子さん」

立山で生きてこられた方のヒューマンストーリーを取り上げさせていただいています「立山こころビレッジの人々」。今回、第6回目にご紹介したいのが、91歳の元教員の松田知子さんです。今回は、この立山の高齢者の話を聞きたいという私の友人の3名とともに、「ヒューマンライブラリー」の企画として、松田さんのお話をお伺いしました。

 

本当のことを言いますと、今回のブログほど書くことを躊躇したこと、そして書くことの重みを感じたことはありませんでした。インタビューをしてすでに2週間経ちましたが、なかなか書くことができなかった。松田さんにお話ししていただいたことが、あまりに重く深く、とても僕なんかが1-2ページで書くことができるものではないと感じたからです。でも、今回の松田さんからしていただいたお話しを、できれば多くの方に知っていただきたい。そして何より松田さんに「書きます」と約束しましたので、ここに書き始めることにしました。

91歳の元教員、松田知子さん
91歳の元教員、松田知子さん

松田さんは1919年生まれの現在91歳。まず驚かされるのは、91歳とは到底思うことができない聡明さ。頭の機敏さとともに、ひょいと体を動かす身のこなしも、とても年齢を感じさせん。話をしていて、まずその落ち着きと頭の回転の速さ、そしてやさしい気遣い、とても魅力的な方です。日ごろは一人暮らしをされている松田さんですが、大阪にいる息子の松田仁志さんが、頻繁に帰ってこられています。その日は、仁志さんにも同席していただき、お話をお聞きしました。

 

松田さんは、現在の富山市五福、富山大学の近くでお生まれになりました。旧制学校から師範学校、そして教師の道を選ばれました。「なぜ教師になられたのですか」とお聞きすると、「そのころは女性が仕事に就くには、産婆、看護士、先生しかなかったから」、と静かにお話になられました。そして戦前から教師をされていました。

 

教師をしていたときに親から縁談の話があり、20代前半で結婚されました。相手の方は、陸軍の軍人の方でした。すぐに息子さんの仁志さんが生まれましたが、時代は当たり前の若い家族の当たり前の生活を許してくれる時期ではありませんでした。昭和19年6月8日、ご主人は中国の蘇州の戦線で戦死されました。仁志さんは、まだ当時3歳でした。松田さんに、「どのような方だったのですか」とお聞きすると、静かに遠い目をされて、「まじめな実直な方でした」とお話されました。

松田さんの話を聞く3人の若者(僕の後輩です)
松田さんの話を聞く3人の若者(僕の後輩です)

戦中、五福の家は空襲で焼け、戦後には本家があった、ここ立山の新瀬戸に移ってきました。そしてこの現在お住みになっている場所で、母と母の兄弟4人や妹と生活を始めました。それからは、教師生活を定年まで続けられました。立山町のいくつもの小学校で教師をなされ、校長もつとめられました。当時は、バスが近所まで来ていて、朝早くから仕事に向かわれ、夜になってから戻ってきたといいます。仁志さん曰く、「母親としては駄目だった。いつも学校の子供ばかり面倒を見ていたから」。そう息子さんがおっしゃられるほど、教師の仕事に熱意を持って取り組まれたのでしょう。再婚することもなく、教師として息子さんを育てあげられました。

 

「実はこれは家族以外には話しをしたことがないことなのですけど・・・」と、松田さんは静かに話しを進められました。それはひとつの飯盒にまつわるお話でした。実はご主人が中国の部隊で使っていた飯盒が、戦後、松田さんのもとに帰ってきたとのことなのです。ご主人と同じ部隊にいらっしゃった方が、ご主人が亡くなられた後に使っていた飯盒を引き継ぎ、終戦後日本に持って帰ってきました。持ち帰った方がおっしゃるには、「連れて行ってくれ、日本に連れて帰ってくれと声が聞こえ、持って帰ってきた」そうです。その後もその方は、捨てるに捨てられなかったそうです。戦後かなりの時間が経ったあと、その方は松田さんが富山に住んでいらっしゃると聞き、連絡を取られました。松田さんは熊本に飯盒を取りにいったそうです。戦後33年の歳月が経っていました。

 

「何かの縁なので…」と、木の箱に大切におさめられ飯盒を、私達に見せていただきました。お見せいただいた銀色の鉄の直方体の飯盒は、所々使いこまれ黒くなっていました。その側面には、「松田」という文字が彫られているのが残っています。私達は手を触れていいものかどうか迷いました。そしてなぜかいろいろな感情が混ざり、涙が出そうになっていました。松田さんは、そんな私達を見て、静かに優しい顔をされていました。

松田さんの話をお聞きする様子
松田さんの話をお聞きする様子

松田さんはゆっくり振り返って、こうおっしゃいました。「昔は親も子供も純真だった。昔の幸せなときに先生をすることができた。思い出はいいもの。苦労はなかった。みんなに慕われて、今でもつながっている。幸せです」。現在でも、多くの元生徒さんが松田さんに連絡をしてくれるといいます。日本全国の元生徒さんが、お土産をくれたり、いろいろなものを送ってくれたりしてくれるそうです。今でもすべての子供の顔は覚えているとのこと。「つながっている」、このことを松田さんの静かな微笑みのなかに、垣間見ることができました。

 

松田さんが、最後に一言おっしゃいました。「一日一日、何も変わりなく、平凡に過ごすことができることが、一番の幸せです」。とても深い深いお言葉でした。お返しする言葉が、出てきませんでした。私にも一言。「お急ぎになることはない。ゆっくりゆっくりやっていけばいいのです」。

 

松田さんと仁志さんのお宅を後にすると、何ともいえない心のすがすがしさを感じました。

 

取材の後に不思議なことが起こりました。実は飯盒の写真を取らせていただいたのですが、それが後になってどこにも見つからないのです。どうしたのだろうかと思ったのですが、もしかしたら、「そっとしてくれないか」というどなたかの意思なのではないかと感じました。

 

後日、松田さんにお礼を言うため訪れたときに、こうおっしゃられました。「この話は生涯話すつもりもなかった。広く知ってもらおうとも思わない。ただあなたの心のどこかに留めておいてほしい」。

 

「心に留める」、立山の里山でお会いした、一人の女性の願いでした。